山川副会長 少し話題を変えたいと思います。伊藤先生から引き継いで頂いた川田新会長は多彩なご経歴をお持ちですが、新会長の橋との出会いとか、橋への想いとか、その辺のお話を聞かせて頂ければと思います。
川田新会長 私の場合は、実は学生時代はフランス文学にかぶれていて、全く技術的な素養は無かったのです。たまたま私どもの会社が橋をやろうということになりまして、卒業すると同時に東大の平井先生のところへ、研究生として勉強してこいといって入れられました。そのときに、伊藤先生がまだ大学院にいらしたかと思いますので、もう随分古い話でして、昭和33年というと、半世紀ぐらい前になってしまうのですかね。それが私の橋との最初の出会いです。
 入ってみましたら、大変良い時代でした。当時はまだコンピューターにしても、フォートランもありませんで、森先生なんかのSIP100とかいうようなマシンランゲージを使うような時代でした。それからPCコンクリートもまだ草創期で、東大の研究室にいたおかげで、非常に面白い動きがわかりました。例えば、本四架橋という話もあったりして、それですっかり橋の虜になった、こういうことでございます。
山川副会長 今お話がありましたように、伊藤先生と川田新会長とは随分古い出会いになるわけですけれども、伊藤先生から見て川田新会長の人となりはいかがでしたか。 
伊藤前会長 今、川田新会長がおっしゃったように、約半世紀にわたって、しかも公私ともに深くお付き合いしてきた。そういう方が私のあとを引き受けてくださるというのは、本当に奇縁という感じがします。
 ここで持ち上げてもしようがないのですけれども、私、本当に感心するのは、川田新会長が多才で、しかも非常に努力家でいらっしゃること。それから、非常に創意(オリジナリティー)に富んだ、あるいはイノベイティブなお考えを持った経営者でいらした。そういう点では、非常にユニークな方だと思います。
 多才で努力家である証は、川田新会長が今おっしゃったように、お父様の会社、最初は非常に規模の小さい会社でいらしたと思うのですね。
川田新会長 はい。橋梁会社の一番後発。(笑)
伊藤前会長 それを、この半世紀の間に斯界で一流というか、トップクラスの会社に育て上げた。しかも、オーナーさんでいらっしゃいますから、非常に苦労もおありになったと思うんです。その上で、皆さんご存じのように、単著だけでも9冊ぐらいのご本を書いておられまして、しかも、それは文化・歴史的なものから技術の高度なところまで、非常に多岐にわたった本をお一人で書いている。そのほかにも、私も加わったことがありますけれども、編著という形で、2〜3冊、技術関係の本があります。  いっとき、川田新会長、あれだけハードな経営者としてのお仕事の傍ら何で書けるんですかとお伺いしたら、朝4時に起きて、会社へ行く前はそちらの方をやるとおっしゃる。そのかわり、夜は一次会止まりでお帰りになる。(笑)本当に、それだけのことはなかなか常人ではできないと思います。
 それから、技術関係のことで私が覚えているのは、東大を出られた後でもいろいろおつき合いがあったのですが、つり橋のセンター・ダイアゴナル・ステイとか、これも特許を取っておられる。
 また、ジャイロスコープでつり橋のフラッターを抑える。これも、そういうアイデアを出されて、私は風洞実験をやって、それを確認しました。そのとき、その風洞実験は、後に本四公団の理事にもなった村田さんの修士論文ですけれども、本当に色々なアイデアを出されました。
 そのほか、会社の方でも、うまくいった部分、つまずいた部分もあるかもしれないけれども、例えばヘリコプターに目をつけられるとか、建築方面にも力を入れられるとか、多岐にわたる面で他の人ではできないことをやられた経営者だということで、本当に感心しております。
川田新会長 どうもありがとうございます。本当はそんなんじゃないんですがね。
伊藤前会長 でも、今言ったことは事実ですよ。嘘は言っていない。(笑)
川田新会長 お恥ずかしいことで。
山川副会長 今、伊藤先生がお話しされたように、川田新会長はリーダーシップを持って会社を引っ張ってこられましたし、また文化、学術といった面でも造詣が深くて、橋梁の普及にも取り組んで頂きました。今、朝4時に起きて本を執筆されたということでありますので、ちょっとその辺の話を伺えればと思います。
川田新会長 私は飲んべえなので、夜に素面なことはないわけです。(笑)朝早いと言われますけれども、何かやるときは朝しかないのです。ですから、夜は酔っぱらってさっさと寝てしまうだけの話ですから、決して自慢できるわけじゃないのです。
伊藤前会長 でも、あれだけ内容に富んだ、しかも広い範囲のご本をお書きになるということは、他にもご本をお読みになっているとか、いわば教養を積み重ねておられるということだろうと思います。もちろんその他にも、やっぱり才がなくちゃ、文章はなかなかあれだけ書けないと思います。
山川副会長 川田新会長は、「ブルックリンの橋」や「だれがタコマを墜としたか」など古今東西、日本の橋も含めて、非常に幅広く書いておられます。
 『ローマ人の物語』の著者である塩野七生さんとは、ローマで対談をされたとのことですが。
川田新会長 あれは、塩野さんの十何巻目でしたか、ローマのインフラをお書きになるときに、あの方は1年ぐらい掛かって資料を集めて、1年ぐらいで書くという、それくらいの時間を掛けておやりになっているのです。
 あれが出版される1年ぐらい前ですか、大分資料が揃ったので、ちょっと話を聞いてくれというご連絡がありました。それではと思って、何とか時間を作りローマまで行きまして、集められた資料を見せて頂いたのです。
 ただ、その資料が殆どイタリア語かラテン語で、私では手に負えませんでした。ただ、ストーリーとしては塩野先生が、ああだこうだとお話をなさいまして、図面とか色んな物は判りますので、多少はお役に立てたかと思っておりますけれども。そんなことなのです。
伊藤前会長 そのときは塩野さんとどんなお話をなさったのですか。お目にかかったわけですよね。
川田新会長 結局3時間ぐらい話し込んでいましたね。塩野さんが色々お考えをおっしゃって、これで良いか悪いかというようなことでして、ご自分の考えをおっしゃっていても詳しくない技術的なことで、間違っていたら困ると。それを伺っていて、私がどうこうするようなことは無かったですけれどもね。ただ、お話の相手をさせて頂いたことぐらいです。膨大な資料をお集めになっていて、感心しました。
伊藤前会長 川田新会長ご自身もあれだけの本をお書きになるというのは、やっぱり資料をかなりお集めになってやっていらっしゃるのでしょう。
川田新会長 これは、一番最初は、何が原因かといいましたら、本四をやろうということで、確か大橋昭光さんがアメリカへ留学されていましたよね。それで、帰ってきてから、向こうから色んな資料を持ってきたのを、一遍、全部目を通したいので、橋建協で抄訳してくれないかという話が来ました。
 私、その当時、橋建協の技術委員の一人だったのですが、その抄訳の小委員会の委員長を仰せつかった。それで、各社の委員の方々、10人以上の方々と組んで抄訳をやることになったのです。
 担当の委員長としては、結局原文を読んでみなきゃしようがない。ということで、私はその膨大な資料を全部読みました。
 外語大卒ですから、読む方は割合得意なほうで、辞書さえあれば読めたものですから。それで、おっしゃるような多少の知識が集まったんでしょうか。中には大変面白い話が一杯あったものですから、折に触れて書いたということでございます。
山川副会長 そういう過去の歴史的なことの記録が残っているというのは大きいです。
川田新会長 そうです。これは、平井先生のご指導なのです。平井先生のお話ですと、色んな知識といいますか技術は、それまでの過去の人たちがやってきたことの成果であり、それを更に伸ばすのは良いけれども、そこまで来る経過というのが必ずあるわけで、それを全部一人で考えることはできない。そんなのは天才と言われるような人でも、誰もできないんだ。したがって、参考文献をちゃんとしておけ。
 先生からそれを教えられまして、そういう意味では、割合私は参考文献を大事にしていたわけです。
伊藤前会長 学者たちの立場からも、本当に大事なことなのです。
川田新会長 東大の研究生になって非常に良かったことは、平井先生から色々教えていただけたことです。
 さっき言いましたように、東大にはコンピューターはあるわ、PCコンクリートの話はあるわ、面白い話が一杯あるわけです。私も色々やっていたら、平井先生に叱られました。おまえ、何でもやっているけれども、知識として色んなことを知っていてもいいけれども、おまえの本当に自分のものだというのを何か創っておけよと。器用貧乏になるなと、これは大変きつく叱られました。そこで、平井先生の弟子になったのだから、つり橋ぐらいはちゃんと勉強しておかなきゃいけないかなと思ったのです。
 これは本当にありがたいことでした。おかげで、後で伊藤先生にもご指導頂きまして、東大の博士号も取らせて頂いた。これはもう、本当にそのときに、平井先生が、自分のものを持たなきゃだめじゃないかと。おまえは理解力があるようだけれども、解っているだけでは何にもならぬ、自分で考えて自分のものを持てと。これは、平井先生のいまだに忘れないお教えです。
山川副会長 先ほどの、橋の物語を残すというのは、とても大事なことだと思います。橋に限らないですけれども、公共の建造物の存在が一般の人の心といいますか、理解と、だんだん離れていくような気がして残念です。
 外国で経験することですが、橋とか歴史的な構造物があると、そこのわきに資料館などがあって、そこに地域の人が見学したり、学生、生徒達の学習に使われたりして、その施設が自分達のものという想いが強いと思います。我々のところを振り返ってみると、その辺の努力が足りないのかなという気もします。橋建協も、そういう面の活動を、もう少し拡大をしたいと思っています。
伊藤前会長  橋は一般の人々に非常に関心を持たれてきた土木構造物という点では、土木の華であったわけです。今はそれがちょっと名声を落としているのが心外ではあるのですけれども、ともかく、今でも橋が好きな人は多い。そういう意味で、一般社会とのつながりを心がけるべきだと思います。
山川副会長 伊藤先生、IABSEの会長も務められ、中国とか、海外の長大橋の技術指導も色々されておられますけれども、特にアジアとかその辺のインフラ整備の活発さに比べると、日本はちょっと寂しいなという感じもします。先生のこれまでのご経験を含めての、お話も伺えればと思いますが。
伊藤前会長  川田新会長と私が過ごしてきたこれまでの半世紀、日本の橋梁界に身を置いてきた私どもは、非常に恵まれていたと思います。私が博士課程のときに、平井先生から与えられたテーマは、つり橋の上を鉄道が高速で走る。その場合に、色々な安全性の面とか、機能の面に問題は無いだろうかと。これは、平井先生が本四架橋の瀬戸大橋を頭に置いていわれたことだと思うのです。それがきっかけで、ケーブルで吊った橋、特にその振動を、私自身の専門にしてきました。
 それから2〜3年たって、日本で初の斜張橋、勝瀬橋が完成し、うちの研究室で実測などをお手伝いしました。その際図らずも、斜張橋の名づけ親にもなったのです。
 それからあと、横浜ベイブリッジ、鶴見つばさ橋、名港トリトン、それから最後には世界一になる多々羅大橋と、順繰りに日本最長スパンとなる斜張橋の技術委員会の委員長を仰せつかったわけです。だから、そういう意味で、非常についていたと言いますか、幸せな立場を与えられてきました。
 世界でも本四架橋なんかは非常に注目されていましたから、海外でそれを紹介するチャンスも多くなったし、そういうことで、国際学会であるIABSE。もちろん、IABSEでは、私どもの恩師の平井先生が、日本人として最初の副会長になられた。だから、私どももその後を継いで、関係を絶やさないようにしてきて、前世紀の最後の頃ですか、要するに2000年前後の3年間、白人以外では初めてだったんですけれども、私が会長を仰せつかることになったわけです。
 あとは非常に関係が深くなって、中国の同済大学で名誉教授を頂くようになったのですが、この30年間の中国の技術発展というのは非常に目覚ましい。もちろん、初めは、日本からの技術を持っていったということはあるかもしれないですけれども、それは日本も同じで、初めは、やっぱりヨーロッパとかアメリカのつり橋の技術を一生懸命学んで日本で成果を上げたわけですから、それはお互いさまという点があると思います。
山川副会長 橋建協でも伊藤先生がIABSEの会長をされている時に、上海での会議と視察に参加しました。
伊藤前会長  あの時に大勢来ていただいて、私の会長としての最後の年の年次大会だったのです。
山川副会長 それで、同済大学の人たちがお世話してくれたのですが、女子学生が多いということと、学生さんの目が輝いているなというのがすごく印象に残りました。
伊藤前会長 だから、そういう点からすると、今の日本の若い人には、特に土木は人気がないというのが心配な点が有ります。
川田新会長 今の伊藤先生のお話を伺いながら思ったのですが、橋も含めて道路とか交通体系をせっせと造っているときというのは、歴史的には、それぞれの国というか地域が興隆し、発展する時期なんです。
 一番古くから言いましたら、ローマ帝国というのは紀元前1世紀ぐらいから4世紀ぐらいまで、この500年が建設の時代なんです。「世界の道はローマに通ず」と言いますから、ローマ人は地球を何周もするぐらいの道路を造って、そこに橋を架けた。その時代がローマの発展の時期なのです。
 それが、今度は4世紀ぐらいから蛮族が侵攻してきて、ローマはずたずたになって、いわゆる封建時代に入って、みんな小さく自分のところに固まってしまって、崩壊した。これを「暗黒の中世」といいます。この間、700年ぐらい、本当に不思議なことですが、ヨーロッパでは、道路も橋も造られないのです。今、よく日本でGNPといいますが、国民総生産という意味では、ヨーロッパはマイナスの時代。大変な低成長の時代が、この暗黒の中世だった。
 そして、11〜12世紀まで、ヨーロッパは暗黒の中世です。それでも後半になると、中世でも少し元気が出てきて、十字軍というのができる。大体これが12世紀から13世紀ぐらいですかね。クレルモンの宗教会議で、そのときの法王ウルバヌス2世が十字軍でエルサレムを奪還すると言い出してから始まります。そうして、その後200年ぐらいにわたって十字軍が何回か行って、その間に古代ローマ文明がまたヨーロッパに戻ってくる。これが文芸復興、ルネッサンスです。
 ですから、13〜14世紀の文芸復興の時代になって初めてヨーロッパに建設の時代、橋や道路が造られる時代がもう一遍戻って来る。ベニスとかミラノとか、ああいう都市が栄えると同時に橋が戻ってくる。そのときから、ヨーロッパに新たな興隆期が始まる。そしてその次に、イギリスで産業革命期が始まります。
イギリスの産業革命期というのは運河と鉄道の時代でありまして、橋も数多く造られるのです。
 その後については、アメリカが道路や橋を造った時代が続き、先ほど先生が我々は幸せな時代に生きたとおっしゃいましたけれども、日本がそういう時代に入ります。今は中国へ行っているわけです。何れにしてもせっせと橋や道路を造っている時が、実は一番民族が興隆するときなのです。
 ヨーロッパを見ましても、橋や道路はもう要らぬといった時代はもうだめなんです。日本は今、橋を造ったりすると税金のむだ遣いだなんていう話ばかりだけれども、本当にそれで良いのかどうか分かりません。
 日本が戦後の復興をしたときに、橋や道路を造り出したわけですが、あのときにお金があったわけではないですよね。ただ、道路をつくり、橋をつくって、インフラを整備した。それで国民総生産が上がって、日本も豊かになったわけです。今の中国だって同じです。
 だから、今、日本は、何か勘違いして、そんなところへ金を使うから貧乏になるなんていうけれども、逆みたいですね、歴史の流れを見ていると。
山川副会長 インフラというのはその国の国力とか、文化とかと、一体不可分のものだということです。
川田新会長 私はそう思います。ですから、最近日本では土木ということを余り言わなくなったけれども、あれは「土木」と訳したのがまずいのだと思うのです。よく言うのですが、語源はシビルエンジニアリングですから。シビルと言うのはミリタリーに対するシビルでして、「文明工学」とでも訳しておけばよかった。文明の基本ですよ。今我々が快適に住んでいる、例えば住居にしても電気にしても空調にしても、全てシビルエンジニアリングの成果です。
伊藤前会長 さっきの海外のことでちょっと言い残したことがあるんですけれども、日本の、少なくとも我々の鋼橋の技術も、世界一の橋を造れるようになった、世界最高の水準に達したわけですけれども、ただやっぱり、考えてみると、我々日本人の特徴というのは技術開発の部分が非常にある。これは橋だけじゃなくて、自動車だってカメラだって電気製品だって、みんなそうです。だから、彼らは、発明したのは俺達なのに、何で日本のものを買わなくてはいけないのだなんて思ってしまう。しかし、それは確かに日本の特徴ではあります。
 ただやっぱり、これからもう少しイノベーションと言いますか、自分で創造していくことをやってほしい。橋でも、残念ながらローゼ橋だのランガー橋だの……。
川田新会長 全て外国人の名前……。
伊藤前会長 川田新会長が幾ら工夫しても、川田橋というのはない(笑)。それは冗談としても、確かにそういう点は真剣に考えなくちゃいけない。
 それから、現在も、ヨーロッパなんかは余りプロジェクトがない。そのかわり、中国や韓国にもヨーロッパのコンサルタントとか色んな欧米の会社が押し出してきているわけです。それを目と鼻の先でそういうことをやられて指をくわえていることはないだろう。だから、我々もそういう点で何か工夫をしなくちゃいけないだろうと思います。
山川副会長 これまで蓄積された技術、ノウハウを海外で活かすということも。
伊藤前会長 そういう責務、義務もあるわけですね、我々の技術を海外で役立ててもらうという。
山川副会長 それから、若い技術者に元気を出してもらうということも大事なことだと思います。
山川副会長 大分話が核心に来ましたけれども、そろそろ時間が参りました。 最後に、川田新会長にはこれから2年間、橋建協を引っ張って頂くことになります。橋を含めて公共事業、建設業界を取り巻く環境は依然として厳しいわけですけれども、新会長としての抱負であるとか会員企業、業界関係者へのご注文などありましたら、お願い致します。
川田新会長 冒頭から出ていましたけれども、談合にまつわる制裁ということで、各社は大変大きなダメージを受けました。そのために、我々橋屋が萎縮しているのではないかという気が致します。ただ、そんな必要はないだろうと思います。制裁は制裁としてちゃんと受けて、贖罪を済ませたら、もう一遍原点に戻って、我々の仕事に対する誇りと自信を持ってスタートしたいと思っているのです。  今度、「虹橋」の挨拶の中で、橋は聖職であったということを書かせてもらったのですが、私は自分で橋屋になって、自分自身の仕事に対して誇りを持っております。それで、業界の皆さん、殊に若い技術者の皆さんたちに、もう一度誇りを取り戻して、自信を持って前進を始めて頂きたい、こんな気がしております。
 それともう一つ申し上げたい。先ほど前会長の伊藤先生からも、学界などともっと交流を深めなさいというお話がありましたが、学界に限りません。橋屋というものをもう少し社会へ向けて窓を開くことが大事なことじゃないかと思っております。今の公共事業の不祥事の中の一つとしてだけ見られているのでは、大変心外な話でございまして、そうじゃなくて、橋屋というのはこういう事をしてきたんだ、こういう事ができるんだ、こんなものだというような、もっともっと外界へのアピールをしなければいけないのではないかと思っています。
 更につけ加えると、入札契約制度に関連するいろいろな動きがありますが、我々としても引続き改善につながる提言をしていきたい。価格一辺倒やくじ引きによる契約などは不健全であり、企業の技術的ポテンシャルとか新しいアイデアとか、いろんなもので競争していくのが本当ではないかと思います。
山川副会長 伊藤先生の方からエールを。
伊藤前会長 エールというか、私が思っていること、特に今の川田新会長の前半のお話は、私がかねがね言っていたことです。私も、会長になって、マスメディアなんかにもいろいろ書いたり言ったりしました。1年ほど前の「橋梁と基礎」の巻頭言で言ったのですけれども、特に今の若いエンジニアに自信と誇りを失わないようにしてほしい。若いエンジニアまで萎縮してしまうのは非常に困るということは、当初申し上げたのです。
川田新会長 よく覚えております。良いことをおっしゃってくださったと思っていました。
伊藤前会長 それは非常に懸念していたことなのです。ですから、今の対談でも申し上げたんですけれども、日本の鋼橋の技術というのは世界に誇るに足るレベルを、成果を収めてきた。だから、それを忘れないでこれからも世界に発信し、あるいは国内で立派にそれを生かしてほしいということであります。  だから、川田新会長に対するエールというのは、結局、川田新会長という方は非常に強力なリーダーシップを持った方ですから、現下の問題を、それをもって解決してほしい。
 ただ、急にいろいろ変えられるとは限らないし、会長としての任期も必ずしも長くはないかもしれませんけれども、でも、ぜひ会長で居られる間にそういうことを期待したいと思っておりますので、よろしくお願い致します。
川田新会長 私も、これから2年間やらせていただく仕事は、今振り子が振れ過ぎていて、ちょっと異常なところまで行っているところもありますので、それをできるだけ直すのが仕事かなと思っています。それが、先生が鋼橋業界の再生ビジョンとおっしゃってくださいましたけれども、みんなが生きていくために大事なことじゃないかと思います。
伊藤前会長 ただ、ちょっと余分なことかもしれませんが、前世紀の終わりごろといってもまだ十何年前ですけれども、日本では年間80万トンとか、そういう鋼橋をつくっていた。考えてみれば、そのとき、世界の約半分だったんです。だから、そういうのがこの狭い国土の中だけで、ずっと続くことはあり得ないわけで、ですから、あるところで落ちつく。だけれども、これがあるレベル以下になることもあり得ないことなのです。ただ、当時とは大分事情が違ってきている。だから、業界の方々も、その時代、そのときに応じたことで、ちゃんと優秀な方が優秀な設備を持って、いい仕事をなさるということだけは崩してほしくない。そのためには、何かが変わる必要があると思うのです。今まで通りにはいかないだろう。だから、それがいいか悪いかを試していただくことを望んでおりますので、よろしくお願いします。
川田新会長 わかりました。
山川副会長 新旧両会長からお話し頂いたことは、今後協会として、外部に開かれた活動に力を入れることと、主張すべきは主張する、ということだと思います。今、公共事業全体が縮小ということがありますが、そういう事業量の問題だけじゃなくて、建設の生産システムそのものが大きな転換期を迎えているわけで、橋梁業界が、これからの社会の要請、新しいニーズに応えていくという観点で、この協会という場を活用して、みんながきちっと議論をして、解決すべきは解決して、発注行政機関とか他業界、学界等と連携しつつ、外部へもきちんと発信していくことが大事ではないかと思っております。
川田新会長 そのとおりだと思います。私は、今おっしゃったようなことを、是非ご一緒にやらせて頂きたいと思っております。
山川副会長 本日はどうもありがとうございました。
(了)
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