播金 我が国最初の鉄の橋、くろがね橋が長崎に架けられてからちょうど140年が経過しました、明石海峡大橋、多々羅大橋という世界最大級の橋を建設し、日本の橋梁建設技術が世界のトップレベルに至るまで発展してきました。
川田会長が自社の技報で、日本の技術が世界で一流になるために、そして技術の大輪の花を咲かせるためには、先人の試行錯誤の跡をたどり、歴史を知って今後の我々の活動につなげる必要があるという事を述べておられます。 本日は、主に戦後の復興から現在に至る鋼橋技術の変遷のお話と、今後の橋梁業界の若手、中堅技術者への力づけのメッセージを頂ければと思っております。 | ![]() |
最初に川田会長よりご挨拶をお願い致します。 |
鋼橋技術の変遷概要 |
川田 本日は、天候が非常に悪い中、お集まり頂きまして本当にありがとうございました。 考えてみましたら、終戦の昭和20年(1945年)は、ほんの50〜60年前にしかならないのかもしれませんが、その時まで1スパンで200mを超す橋は無かったのです。 最初に200mを超えるのに戦後10年かかっておりまして、西海橋で初めて216mを架けています。 それから、さらに7年、したがって戦後17年の1962年、若戸大橋(367m)でやっと300mを超えました。 そういった時代から営々とやってまいりまして、ついに吊橋では1991mの明石海峡大橋を、そして斜張橋でも890mの多々羅大橋を前世紀の末、1998年、1999年に竣工させました。 世界一の橋を架けるまで長足の進歩をしてきたという意味で、私たち橋に携わる者としては大変誇りにしているところでございます。 この間、日本の橋梁建設技術を実際に支え、発展を可能にしていらした方々に今日お集まり頂きまして、その間のご苦労や体験をいろいろお話し頂き、それが後に続く若い技術者の参考になればと思っております。 どうぞ宜しくお願い致します。 播金 座談会の本論に入らせて頂く前に、伊藤先生に鋼橋のこれまでの変遷の概括的なお話をして頂いて、そこから話題を発展させていければと思います。 伊藤 さっき、播金さんからお話がありましたが、日本で最初の鉄の橋は、1868年、明治元年、長崎のくろがね橋です。 明治期の鉄の橋は、ほとんどが欧米からの輸入だったそうです。 国産で初の鉄製の橋というのは、1878年の弾生橋で、これは現在富岡八幡宮に八幡橋として保存されています。 橋は輸入品だったとはいえ、明治の中頃、1880年から1910年頃までの間に、既に帝国大学卒或いはアメリカに留学した優れた日本人技術者が活躍しておられます。 鉄鋼の一貫生産が日本で軌道に乗ったのは、日露戦争以後、20世紀に入ってからです。 その後、大正時代、1912年以降に入って輸入橋梁は無くなり、全て国産で造れるようになりました。 特に大正時代は鉄道橋で橋梁形式とか架設工法の技術が共に非常に発展したと言われています。 もちろん、それ以後、道路橋も多岐にわたる発展を遂げたのですが、橋梁の形式としてはタイドアーチ系或いはカンチレバー系、我々ゲルバーと呼んでいますけれども、そういうのが流行ったようで、これはやはり日本では軟弱地盤の場所が多いのが原因かと思います。 1923年、大正12年の関東大震災、その後の東京の震災復興事業を契機として日本の鋼橋の |
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技術は独自の飛躍的発展を遂げました。
同じ頃、大阪でも都市計画事業によってたくさん注目すべき橋が建設されたと聞いております。
1930年代に入ってからは、鉄道橋で桁補強に溶接が導入された。さらに、全溶接の東京の田端大橋、山梨県の鶴川橋が造られた(1935年)。
ですから、溶接も戦前からかなり研究されて、実際にも使われていました。 その後、太平洋戦争に入り、橋の方には鋼材も供給されなくなり、新設橋梁は空白期に入りました。 恐らく橋の保守なんかも放置されていたのではないかと思います。 |
そこで、今日の主題である戦後の話になるわけです。
戦後初めての大規模橋梁は、岐阜県の忠節橋で、これはアーチですけれども、1948年にできています。
1949年には戦後初の溶接の橋、恵川橋が広島県で架けられております。
1950年代に入って、我が国でも鋼の橋は非常な発展を遂げました。
これはドイツの戦災復興橋梁の斬新な技術開発に学ぶところが随分大きかったわけです。 例えば、合成桁は大阪の鈴橋が1951年に、神崎橋が1953年に造られています。 それから、高張力鋼の50 キロ鋼が本格的に使われた最初の橋が相模大橋で、これは1955年です。 そして長径間鋼床版箱桁の城ヶ島大橋、また最初の斜張橋が勝瀬橋で、これらは1960年にできました。 それから次第に高力ボルトなども使われるようになりました。 これはちょっと残念とも思いますが、日本独自の技術というよりは、私共大学院時代にドイツ語の文献を随分勉強した記憶がありますが、最初はヨーロッパ技術の後追いが続きました。 それらを改良、発展させる技術の開発は日本では素晴らしかったのですが、これは後の吊橋の建設などでも似たような状況が見られております。 それから、戦後日本の橋梁技術を非常に発展させたエポックメーキングな出来事は海を渡る橋で随分発揮されていると思います。 先ほど話の出た西海橋、城ヶ島大橋、吊橋では若戸大橋、それに天草架橋。 これらはいずれも海を渡る橋で、スパンとか橋梁形式の点で、日本ではそれまでに経験しなかったような領域に入った。 さらに、その後、国としての経済発展、東京オリンピック、大阪万博を契機にして、都市間の高速道路である東名、名神、都市内の自動車専用道路である首都高速、阪神高速、鉄道では東海道新幹線、これらが技術の飛躍的発展を促しております。 1970年以降は、特にスパンの長大化が目覚ましかったと言えます。 これはひとえに古今未曾有の大橋梁プロジェクトであった本四架橋に刺激されたところが大きかったと思います。 1988年に瀬戸大橋が完成しましたが、道路鉄道併用の長スパンの吊形式橋梁として、世界に冠たるプロジェクトだったと言えます。 並行して、首都圏、東海、阪神など大都市圏での埋め立てに伴う大規模橋梁の建設が活発になりました。 というわけで、1980年代後半から十数年にわたって、日本の鋼橋の生産が年間70万tから90万t |
というレべルを記録しました。
そして、先ほど川田会長からも話のありました1998年、99年にはそれぞれ明石海峡大橋、多々羅大橋という世界最長スパンの吊形式の橋梁を実現させました。
文字どおり20世紀の最後だったわけですけれども、世紀が変わって大規模橋梁ブームが一段落ついて、これからは維持補修を主体とするブリッジマネジメントが大事な時代となってきました。
然し、将来に向けての海峡横断プロジェクトは、日本でまだ幾つか話題があるわけです。
これについては、関係者が一応勉強を続けているというのが今までの状況だろうと思います。 日本の鋼橋の技術の変遷だけ簡単にご紹介しましたが、海外の技術の変遷も並行して、同じような話題が挙げられると思います。 | ![]() |
播金 戦後の特筆すべき橋に西海橋がありますが、長谷川さん、何かご苦労話をお願いできればと思います。 |
標準化・近代化の原点西海橋 |
長谷川 西海橋は、私は全く駆け出しで担当しましたので、あまり話をする資格がないのかと思いますが。
先ほどお話が出ましたように、我が国で初めて200m を超える橋梁という事で取組んだわけです。
現場へ行って、ここに橋を架けるんだと言われた時には、身が引き締まるという気持ちが大変しました。 |
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この橋梁の特徴は、それまでは現場の細部まで技術管理をするという事はなかったのですが、
この頃から、長大橋でもあり、細かい所まで技術管理をやっていこうという事になり、橋梁の施工管理に対して、非常に目覚めたと考えています。 架設はアメリカのナイアガラのレインボーブリッジをお手本にして施工計画をしました。タイバックシステムによる突出工法です。 アーチの閉合には応力調節をしなければいけないのですが、架設途中の段階ごとの応力や形状管理が非常に難しかったと記憶しています。 |
その後、製作を近代化、自動化していくという過程がありますが、この橋はそのスタートになるのではないかと思います。
インターチェンジヤブル(互換性) で部材を造り、4分の1しか仮組立てをしていない。
あとはフルサイズエ法で部材計測をやって製品検査をし、仮組立ての形状を類推し、仮組検査を省略しています。
これがその後、橋梁生産の自動化とか、数値化をしていく方向に進んでいくひとつのきっかけになったと考えております。 その後、競争設計時代を迎えるわけです。 先ほど伊藤先生が述べられたいろんな技術、例えば、鋼床版とか、合成桁、主として薄板構造ですが、そういった技術がドイツから入ってきて我々が設計するようになる。 その競争設計の時代は、鋼材の値段が高かったわけです。 |
我々の給料が1万円そこそこだった時代に、鋼材の値段が4〜6万円/t ぐらいしていました。
ですから、その当時、重量を軽くすることが最大の目標でした。
そのため床版を薄くして重量を軽くするとか、断面を小さくする、板継ぎを多くして鋼材を節約するとか、それらは我々の反省点にもなりますが、そういう設計に走っていきました。
重量が軽いという事は積算上安い事になりますから、発注者もそれで選択をされたわけです。
ですから、橋梁が非常に軽くて、剛性も少ない、部分的には、できるものはできるだけ省いてという事で、構造体としては余り勧められるものではなかったと思います。
競争設計はコンサルタントができる昭和37年か38年ぐらいまで続きました。
床版で不具合が出て多くの橋で縦桁補強をしましたが、当時造られた橋梁のそうした事情によるのではないかと思います。 | ![]() |
阿部 西海橋で標準化に近い製作方法を採用したという話ですが、東海道新幹線も構造の細かい部分も含め標準化されています。
これは維持管理上非常に都合の良い事であって、いずれかの橋梁で疲労欠陥などが発見されると、その部分に対して必要に応じて補修や補強を施すのは当然ですが、これと併行して他の同種の構造の橋梁も点検します。
そうすると同種の欠陥が発見される事があります。たとえ欠陥が認められなくても予防のための補強をしておき、その種の欠陥については安心感が高くなります。
これらが標準化の大きなメリットです。 しかし、作業がマンネリ化してはならず、次に別種の形態の被害の発見に努めなければなりません。 これで発見した後は、前に述べたのと同様の処埋を施します。 |
海外からの技術導人 |
播金 部分仮組みから、現在、我々が行っている数値仮組みにつながるのは、西海橋の時代からの蓄積で、今ようやく一般化してきたのかなと思います。
この時代は、海外からの技術の導入が中心になっていたという事ですが、大橋さん、その辺りはいかがだったのでしょうか。 大橋 例えば直交異方性版の理論であるとか、格子理論、さらにドイツあたりの50キロクラスの高張力鋼、しかも溶接性に優れているという情報が伝わってきますね。 それに刺激されて、日本でもそういうものを設計に応用して実際に自分で物を造って、新しい理論や材料を確かめていった。 伊藤 航空機関連の構造にヒントを得て、鋼床版つきのボックスガーターという非常に合理的な設計を始めたとか、斜張橋という構造形式を大きなスパンに使ったとか、そういう点で戦後のドイツのイノベーションというか、それが非常に目立ったわけです。日本の技術者もそれに啓発された。 大橋 そういう意味では、Bauingenieur とかStahlbau という雑誌は、大学の先生はもとより、橋梁会社の方々にも大いに読まれて、大学の先生方と時あるごとにディスカッションをしなら、新しい技術をだんだん自分のものにしていく事に影響があったと思います。 |
溶接技術の変遷 |
播金 溶接のスタートは実は道路橋より鉄道橋の方が先に進んでいたという事ですが、阿部先生にその辺のお話をいただければと思います。 阿部 伊藤さんの話にも出てきたように、鉄道橋で最初に溶接を採用したのは既存桁の補強のためでした。 昔の鉄道関係者は線路を跨ぐ道路橋などにも手を伸ばしていました。 当時、機関車が重くなって来たので盛んに強い橋梁に架け替えましたが、そこで使われなくなった古い鉄道橋は、床部などを改造して跨線道路橋として利用しました。 昭和10年、東京田端のヤードの線路を跨いで新しい道路橋を架けました。 この「田端大橋」は当時、世界最大のスパン(支間53m)の全溶接構造ですが、区の方の要望で現在も文化遺産として人道橋に利用されています。 その後、部材別に溶接構造(斜材や圧縮材) とリベット構造(主に引張材) とを併用した鉄道橋が幾つかあります。私が国鉄に入社して間もなく、昭和30年に佐久間ダムエ事に関連して飯田線を |
付替えた際に始めて3径間連続の全溶接トラスの鉄道橋が架設されましたが、これが東海道新幹線のトラス橋のほぼ原型となっています。
私はこのトラスの架設計算を行いました。それが縁で国鉄入社後、構造物設計事務所という部所に配属されました。 新幹線に全溶接構造が採用されましたが、在来線でも殆ど例が無かっただけにその是非は重大な問題でした。 当時、友永さんが所長でしたが、その採用に当たっては東大の田中豊先生に相談されたところ「やってみ給え」と励まされ、採用を決心されたと聞いていますが、これは画期的な事であったと思います。 なお全溶接構造と言っても、鋼鉄道トラス橋梁の場合、部材を溶接で組み立てて現場で部材同士をリベットや高カボルトで接続する構造です。 | ![]() |
播金 その時代の技術で全溶接をやっていこうとすると、メーカサイドとしても相当いろんな努力があったと思いますが、長谷川さんいかがでしたか。 長谷川 元国鉄の時代に、旧横河橋梁では溶接の実験桁を造って研究の道を開いてきた実績がありますので、溶接に関しては非常に先鋭的でした。 東京工場に溶接の研究所を造るなどして創業の頃から溶接に非常に関心がありました。 そういうことで戦後の橋梁での溶接のリーグとして、非常に沢山の橋梁の設計・製作に当たりました。 下瀬 阿部さんのおっしゃった全溶接の定義にちょっと抵抗があるんですが。 われわれが普通全溶接という場合は、現場継手も溶接にしたというのが全溶接の定義に相当すると思います。 阿部 現場溶接を含めて全溶接の橋梁はあまりないですね。 ドイツなどにはありますがベルギーでフィーレンディール橋で大事故を起こした事もあり、まず鉄道橋では採用しませんでした。 大橋 誉鳩(ほんきゅう) 橋(昭和27年;兵庫県) なんかどうなんですか。あれは道路橋ですが。 播金 あれは現場継ぎ手も含め全溶接ですが。 長谷川 溶接の条件が、現場では天候だとか、溶接姿勢だとか非常に悪いものですから、継ぎ手はボルトまたは、リべットでやった方がコストが安いという事と信頼性という面で、無理して溶接を現場まで持ち込むというのは非常に稀だったわけですね。 当時どうしても現場溶接するなら回転枠を持って来いという話もあって、そこまでするぐらいならリベットやボルトの方がはるかに経済的に有利であり、現場溶接はそれで立ち消えになってしまいました。 阿部 国鉄の構造物設計事務所は工場製作の監督も兼ねていました。溶接に従事する工員には国鉄独自の技量検定を課していましたが、かなりうるさい事を言いました。 溶接というものはリベットに比べで直重を要します。まして東海道新幹線に全溶接構造を採用するという事は画期的な事なので、安全は絶対に確保しなければなりませんでした。 長谷川 少し後の話になりますが、都市高速道路が盛んに造られるようになってきて部材が、特にラーメン構造になって大型化してきますね。そのため部材のハンドリングが自由に行われないようになり、昔は溶接を先に行い、溶接拘束がなるべく少ないような組み立てをやっていたのが総組み工法になった。 そうすると必然的に溶接部の拘束が多くなります。しかも、構造が複雑になっていて溶接工の姿勢が十分取れない、そういう構造が多発するようになってきました。 昔は、その口に溶接したのが次の日の朝行ったら割れていたという事もあったものですから、その当時の人は設計や工作法に非常に慎重でした。 その後材料が非常に良くなり、1晩のうちに割れるなんて事は無くなってきました。 その結果、板厚が厚い、溶接がしにくい、拘束が大きいなど難しい構造が割合安易に設計されるようになった事も事実です。 今、都市高速で問題になっていますが、隅角部などのいろんな問題が発生している1つの要因ではないかと思います。 播金 下瀬さんは、海外でオークランドハーバー橋などに関係されていますが、溶接関係で海外と日本の違いみたいなところはありますか。 下瀬 基本的には溶接に関しては、海外と日本は違わないと思います。 ただ、設計的にいうと、海外の場合には、専門のコンサルタントかおりますが、思い切った設計をします。 オークランドハーバー橋はイギリスのコンサルタントの設計ですが、原案は部材の溶接も含め全部現場溶接でした。 原案では日本ではできないというので、部材溶接は工場という形式に変更しました。部材を溶接するのはどこも同じだと思います。 現場溶接にするかどうかという違いはありますね。日本は原則、現場はボルトですから。 川田 私はその方が合理的だと思うけどね。若戸大橋の場合は確か部材の製作もリペットだったですね。 現場に行って驚きましたが、ずいぶん溶接が進んでいたのに、未だリベットかねと思った記憶があります。 大橋 弦材はリベットですね。弦材以外は溶接組み立てで、鋼材はSM50まで使っています。 長谷川 やはり材料に多少疑問を持たれた面があるのではないかと思います。 今でこそ日本の鋼材は世界に冠たる品質ですが、28年から30年頃の鋼材はそんなに良い鋼材じゃなかったと思います。 薄いものはともかく、20mm とか25mm とかになると。 ちょっと余談になりますが、西海橋のタイバックに用いた50mm径のストランドロープの素線はスウェーデン製でした。 その当時の日本の鋼材の水準は今と違って世界一流ではなかったのではないでしょうか。 川田 西海橋のワイヤーは日本製じゃなかった? 長谷川 スウェーデンから素線を輸入して、東京製綱でストランドロープにしました。 |
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